宮崎県高千穂町。天孫降臨の地と伝えられる大分県境の神話の里だ。そこからさらに山あい深く進み、小川のせせらぎが聞こえた頃、「土呂久」という小さな集落にたどり着く。私が育った宮崎市から車で4時間。春は柔らかな日差しの中、蝶が舞い、夏は土呂久川の水面にまぶしい光が反射する。棚田の稲が刈り取られ、山が色づく秋が過ぎると、南国宮崎でありながら静かに雪が舞う冬が訪れる。しかし緩やかに時が流れるこの小さな山里は、鉱毒に苦しみ、行政の公害認定、企業との裁判を闘った集落でもあるのだ。
私の父は、支援者としてその運動にかかわり、私が物心ついた頃には、営んでいた小さな会社を仲間に譲り、被害者支援の事務局をしていた。故郷でもない集落の人々と寄り添い、ともに歩む父を通して、世間から忘れ去られた集落の民が県を、国を、大企業を相手に長年押しつぶされてきた声を必死に上げる姿を見てきた。素朴で心優しき、静かな村の人々が大勢の前で慣れぬ話をし、抗議のため東京のビル群に立つ。その姿は子供だった私の脳裏にも焼きついている。裁判闘争は私が中学に入る頃、和解という解決を選んだ。世の中には必ず伝えるべきことがあり、届けるべき声がある。そんな声を拾い上げる人間になりたい。そう心に刻んだ。
毎日新聞で記者生活を始め、まもなく10年。ライフワークになりつつある教育問題から事件事故、そして地方行政、国政と多くの分野を垣間見てきた。とにかく自分の目で見、耳で聞き、考えて、目の前で繰り広げられることに肉薄したいと思ってきた。
特に07年参院選直後から始めた民主党取材では、小沢一郎代表(当時)の行脚に同行し、北海道北見市から沖縄県石垣島まで歩き回った。貴重な経験だった。足を踏み入れていない都道府県はない。陣営事務所を訪ね、連合地方組織と会合を持ち、時に一次産業の現場や幼稚園、介護施設、商店街に赴く小沢氏を通して政権交代に向けた民主党の基本姿勢を観察してきた。しかしその行脚は同時に私自身が自らの目で日本中の現状を眺め、それぞれの土地に暮らす人々と接する旅にもなった。キーワードは閉そく感。多くの街では、底なし沼のように足場が沈下し、踏みとどまれない焦りが漂い、そこで暮らす人々は明日が見通せない不安を抱えていた。その閉そく感を打ち破りたいという有権者の必死の思いが、初めての本格的な政権交代を後押しした。言い換えれば、国民が抱えた閉そく感がそれだけ深刻な状況に達していたことの証明でもある。
私は政治の役割とは、それぞれが歩む人生の道程に現れる障壁をどれだけ減らすことができるかだと信じている。もちろん政治の力ではぬぐい去れない困難はたくさんある。病気、事故、災害、人の力では抗えないものものも多い。しかし学びたい意欲を持つ人間が学べない。働きたい人間が働けない。そして生き続けたいと願う人間が生きられない。人生の道程から政治の力で取り除ける石を一つずつ取り除き、急な崖をなだらかな坂に作り変えることこそが政治に求められているのだ。さらにそのまなざしを社会のあり方に苦しんでいる人々、取り残された人々、そして声をあげることすらできない人々に向けられるかどうかに政治の想像力が問われている。重要なのは「誰もが生きやすい社会」を構築することだ。それは民主党の掲げてきた「国民の生活が第一。政治とは国民の生活を守ること」という理念と通じるものだと思っている。
民主党での政治活動を志した今、年も若く、見識も十分ではない私にできること。それは政権の目となり、耳となることだ。さらに政権が、与党が目指す方向性をメディアを通してではなく、草の根で直接説くことだ。多くの人々と接し、耳にしたことを自分の目で確かめ、それをダイレクトに国会に運ぶ。記者時代と同じく徹底して現場にこだわる。地道に生きる人々の歩みに寄り添い、その思いを拾い上げられる政治家を志す。民主党が広く機会を与えてくれた公募の志願書がその誓約書だと思っている。
最後に、私はふるさと宮崎から来夏の参院選に挑戦するチャンスを得たい。宮崎は民主党が最も苦戦する地域の一つだ。民主党の衆院選を担当記者として取材し、重々承知している。こだわる理由はただ一つ。宮崎ではこれまで必ずしもその時々に本来問われるべき選挙の構図を有権者に示せなかった。政権交代を果たした今、厳しい評価も含めて有権者に民主党を問う選択肢をきちんと提示することが政権与党としての責任だ。その任を担いたい。厳しい環境の中で宮崎の民主党を築いてきた方々の末席に加えていただき、民主党の根を張り、本格的な二大政党制の確立に我が身を投じる覚悟を固めている。
※この小論文は、2009年の民主党国政候補者公募に提出したものです。まさに渡辺創にとっての「原点」であり、思いは変わりません。