本稿は、2021年4月の宮崎県地方自治問題研究所発行
「研究所だより」に寄稿した記事です
衆議院への挑戦を決意し1年2カ月が過ぎようとしている。支援を呼びかけるビラを片手に地域を歩いていると、咲き誇る菜の花に目が留まる。「そういえば、昨年もこんな場面があったな」と既視感に浸りながら、ただただ過ぎ行く時間の早さを実感する毎日だ。
この機会に自分のフェイスブックを振り返ってみた。マスク姿の写真ばかり。まさにこの一年を象徴している。新型コロナウイルス感染症が活動に及ぼした影響は著しい。社会全体が真綿で首を絞められるように逼迫する中、公職にある者が自らの政治活動への影響を取り立てて騒いでみてもナンセンスなので、日頃はあまり口にしないが、今回は特別にお許しを戴きたい。
対面でお願いする。集会を開いて考えを聞いてもらう。こんなオーソドックスな政治活動を封じられ、加えて掴みどころのない不安が漂う中で、活動がどう受け止められるかとの迷いを抱え続けているのがコロナ禍での政治活動の現実だ。もちろん、状況に甘んじているわけではない。WEB対談などICTの積極活用や徹底したポスティングなどデジタル・アナログ双方での試行錯誤を繰り返し、連合・神津里季生会長の年頭所感のように「ニューノーマル」を探っている日々だ。ただ、その手ごたえはまだ僅かであり、確信には至っていない。
一方で悲観することばかりでもない。この状況下での挑戦は、自らが抱く政治への思い、社会への思いが本物であるかを問い続ける作業でもある。私心はないか。純粋か。自らが尽くすべき公がイメージできているか。その自問に応え続け、今も決意に揺るぎがないのは、宮崎の思いを背負う本当の意味での覚悟ができたことの証だ(と少なくとも私は思っている)。
そのような中、宮崎県地方自治問題研究所の「研究所だより」に寄稿のお話を戴いた。浅学菲才の身なりにあれこれ考えてみたが、頂戴したテーマは「第49回衆議院議員総選挙に臨む私の決意」である。お話しする機会が限られる中で「渡辺創」が託すに相応しい人間であるかを見極めていただく好機と捉えたい。100号を超える伝統の「研究所だより」にはそぐわない拙稿かもしれないが、その点はお許しいただこうと思う。肩肘張らず、背伸びせず、「渡辺創の手引き」のつもりで筆を走らせることにした。寛容な心でお付き合いいただけたら幸いである。
某経済紙の著名コーナーのタイトルを借りる。そこに登場する方々と比較されて困るのは私だが、しばらくの間、紙幅を費やしてお伝えしようとすることと目的が合致するので、ご容赦を。
私は1977(昭和52)年生まれの43歳。新潟大学法学部卒業後、毎日新聞社の政治部記者を経て、2010年の参議院選挙に民主党公認で挑戦したが、次点で落選。翌2011年県議選宮崎市選挙区で初当選後連続3期。この間、民主党や民進党の県連幹事長、2018年2月に旗揚げした立憲民主党県連では代表を務める。宮崎市東大宮で妻と、この春高校、中学に進学する長女、長男と暮らしている。
と、まあこんなところが世間に流布している経歴だ。ただ若輩だが、その歩みにはもう少々の膨らみがある。せっかくの機会なので、政治家を志すことにつながった(であろう)原点の幾つかを振り返ることで、皆様に渡辺創を理解いただく材料を提供できればと思う。
私は、1950年・寅年生まれの両親の一粒種である。田野と国富のハイブリッド、生粋のみやざきっ子ということになる。父は、都城高専からどんな経緯をたどったのかよく知らないが、私が物心つく頃には経営する零細工事会社を譲り、高千穂町の山村が舞台となった土呂久公害事件の被害者の会の事務局を担っていた。被害者との血縁も地縁もない父がその立場にあったのは、おそらく大企業(というかその背景にあった国策)が小さな山村の民を苦しめた事実や、発覚後も力なき民の声を葬り去ろうとした行政や社会への強い反発があったのだろうと想像する。ちなみに、私の現在の後援会長である写真家の芥川仁さんは、この土呂久の運動での父の同志である。
私が小学生の頃、土呂久の裁判闘争は山場を迎えていた。私も幼き日から何度も土呂久に連れて行かれたし、裁判所前での集会に立錐する大人の隙間で参加した記憶もおぼろげながらある。原告勝訴の判決に被告企業が従うよう被害者が東京で座り込みを始めると、父の姿は家から消えた。時折かかる遠距離電話のやり取りを、受話器を握る母の背中に掴まって心配しながら聞いたものだ。
本論を逸れるが、いくつの時だったのか。父と日豊本線で日向に行き、労働組合の旗開きに参加したことがある。支援労組の旗開きで連帯挨拶が目的だったのだろう。私は電車が嬉しいだけで意味も分からなかったのだが、壇上の赤い大旗とたくさんの大人、そして帰りにお菓子を買ってもらったことだけ鮮明に覚えている。図らずもいくつもの旗開きに出席する立場になったが、実はこれが私の初体験なのだ。仕事に追われながらも僅かでも我が子と過ごそうとしたのであろう父の心境は、同じような境遇に立つ今、慮ることができる。
閑話休題。大学生の時に、運動の歩みを記した『記録・土呂久』を初めて読んだ。裁判が長期化し原告団の高齢化が進む中、小さな山村の分断を心配しながら、命あるうちの解決を望んだ原告・被害者。そして社会運動に広がった支援の姿がそこにはあった。
私にとって原告団のおばあさんやおじいさんは、土呂久で出会えば、いつも心優しき山村の住人だった。その人たちが何時間も車に揺られた宮崎では裁判所の前でタスキをかけ、ブラウン管にもその姿を現す。語ることすら得意ではない人たちが裁判を起こしてまで、寒空の下東京のアスファルトに何日も座り込んでまで訴えたかったことは何だろう。また、支えようとした多くの人たちの心を揺り動かしたものは何だったのだろう。幼き日の消化不良に応えてくれた気がした。
そこにあったのは、「弱く」「小さい」と表現されそうな立場にある人間の思いを「気づかないふりが賢明」「受け止めないのが安泰」と考える社会構造であり、そういう扱いをあからさまに企業や行政、そして何よりも社会から示され、虐げられたことへの強い怒りであった。第1回口頭弁論で原告を代表した佐藤鶴江さんが「生きとうございます」と訴えたことは、人間の根源的な人権回復の願いであり、何も手を施されずに放置され、声を上げれば大きな力で抑え込まれようとしたことへの憤りであったのだろうと私は理解している。
さて、社会に目を向けるきっかけを与えた両親は、あれこれ体の不都合を抱えながらも元気だ。100㍍も離れていない所に私が居を構えたため、孫の面倒など何かあるとすぐ「おじいちゃん!おばあちゃん!」が我が夫婦の口癖である。土呂久の運動の後、大分・熊本で長い単身赴任生活を終えた父は、今は党街宣カーの運転ボランティアが日課だ。母はこの原稿を書いている今も新しい二連ポスターの裏に両面テープをせっせと張り付けている。「電柱を見ても頭を下げろ」というような政治家家族の生活を強いてしまったことに息子として葛藤がないわけではないが、この寄稿に乗じて感謝を伝え、ご勘弁願いたい。
引き続き家族の話で恐縮だが、私が政治家になったことに母方祖父の影響は否定できない。祖父は、国富町議を経て東諸県郡選出の県議だった。孫は私一人であり、家族内の諸般の事情により「渡辺」というファミリーネームは、こちらからの流れである。「祖父が県議だから、孫も政治家に」と聞くと、世襲?とか政治が家業?と変な話に聞こえそうだが、そんな話ではない。県議会で議席を持ったのは24年の開きがあるし、そもそも選挙区も違う。
簡単に言えば、「物事の解決策」としての政治が身近であったという意味だ。祖父は体が大きく、鷹揚な人だった。県議会では時に大きな声でユニークな野次を飛ばし、迫力もある言論闊達な議会人であった(らしい)。そして優しい人だった。
子供の頃、夏休みや冬休みを過ごす国富の家には、引切り無しに誰かが来ていた。呼び鈴も鳴らさずに上がり込んでいる人もいたし、困った顔で真剣に話し込む人も少なくなかった。そんな時、祖父は「おー」とか「そうですか」と言いながら、頷きながらゆっくりと話を聞く。そして目の前の電話に手をかけて「あーどうも、渡辺紀(はじめ)ですが」と大きな声で電話をかけ始めるのだ。すると大方の人たちは多少なりほっとした顔で帰路につく。
大学生の頃、勉強と趣味を兼ねて新潟で田中角栄の足跡を追いかけていた。「目白の田中邸に相談に行くと、角さんはすぐに電話をかけて解決してくれた」という昔話をよく聞いた。子どもの頃、柱の陰から見ていた祖父の姿と重なった。
祖父は、強いて言えば中道政治家だったのだろうが、どのような政治思想を持ち、評価されるほどの功績がある政治家だったのか否かも正直知らない。ただ、人から頼りにされていたことは間違いない。町を一緒に歩けば、誰もが親しく話しかけてくれるので子どもながら嬉しかった。今となれば、この仕事である。当然、毀誉褒貶あったはずだ。しかし、その東諸県郡も選挙区になり、新たな歩みを進める中で「紀さんにはお世話になった」と今でも言ってくれる人が後を絶たないのは、孫として嫌な気持ちのすることではない。
祖父は、私が初めて挑戦した2010年参院選の2カ月前に他界した。落選を見せずによかったのか、心配させたままで悪かったのか悩むところだが、私が選挙に出るのには反対だった。
「志を持って参院選に挑戦する」と、2009年10月に久しぶりに帰省し相談したところ、首を縦に振らなかった。もうどちらも鬼籍に入ったが、県議会初当選同期で旧知の仲だった米沢隆さんに電話を入れて「うちの孫を犠牲にするな。止めさせてくれ」と頼んだという。
当時既に体調を壊し始めていた。最終的には納得し、病身を押して各地の知人に電話を入れてくれた。政治の道を歩み出した私を見ていた時間はわずか数カ月だったが、最後まで「いいか、政治は人の苦しみや悲しさを我がことのように背負えるかどうかだぞ」と言い続けた。その厳しさがわかっているからこそ、孫には同じものを背負わせたくはなかったのだろう。まもなく没後11年。私はこの言葉を胸に県議として歩んできた。意味も、大変さもよくわかってきた。きっとますます大きくなるだろう。それでもその厳しさを背負い続ける覚悟と優しさを持って歩みたいと思っている。
そろそろ自分自身のことに話題を移そう。胸を張ることでもないが、私には高校中退の経験がある。40代半ばになって思春期のエモーショナルな話をしても仕方ないが、やはりここに私の原点はある気がする。
自分で言うのは不遜だが、私はなかなかの“優等生”だった。成績もまずまず、中学では生徒会長で、男女100人超のバスケ部で副キャプテン。先生に怒られることもない。“そこそこ”の文武両道で、同級生の馬鹿騒ぎには加わらなくても、笑って見逃すくらいの度量はあった。
県立高校が合同選抜の時代である。私は同級生数十人と一緒にあまり考えることもなく、実に自然に県立宮崎北高校に進学した。県央部出身で同年代ならご存じの「西は監獄、南は地獄、大宮天国、北パラダイス」と言われていた時代である。私はそのパラダイスの10期入学。確かに高台の新設校は、自由で緩やかな学校だった。そこで青春を謳歌するはずだったのだが、人生には予期せぬ落とし穴があるのだと知る。
私はバスケットボールをしていた。進学校の部活だからレベルは推して知るべしだが、入学式より早く先輩に交じって練習する熱中ぶり。中3の時に宮崎であった全国高校総体では、会場の延岡・日向に何日も観戦に行ったし、NBAや日本の実業団リーグの選手やデータを頭に叩き込み(英単語でも覚えた方がよかったとの後悔を伴うが・・・)、部屋は選手のポスターで溢れ、愛読書は「月バス(月刊バスケットボール)」といった具合で、要は凝り性なのだ。教員になって指導者に、という将来像もぼんやりと持っていた。
そんな部活で怪我をする。腰の椎間板ヘルニアで、痛みと左足の痺れがひどく、競技どころか教室で座っていることも苦痛なのだ。入院も手術もした。当然、バスケもできなくなった。顧問のI先生は学生コーチの道もあると慰めてくれたが、頭は真っ白。自分の存立基盤を失ったような気持ちで、自己肯定感がぐらぐら揺らいで崩れ、何もかもが嫌になった。ここが我ながら子どもだったなと思うのだが、「他に楽しいことを探そう」とシフトチェンジできず、ある種の自己防御策として導き出した解は「全部を止める」という選択だった。「学校を辞める」と決めて登校しなくなったのだ。
入院はあったが不登校傾向は全くなく、突然スパッと来なくなったわけだから、先生たちは慌てた。それ以上に気を揉んだのは母である。今思い出しても申し訳ないほどの動揺ぶりだった。ここからの経緯は小冊子で実録を作れるほどなので省略するが、紆余曲折を経ても本人の意思が固く、中途退学は“敢行”され、16歳になったばかりの秋に私は高校生でも勤労者でも、まして大人でもないという社会的属性を失った時間を送り始めることになる。
正直に言おう。解放感など全くなかった。大検を目指し参考書とにらめっこしたが、体の具合もよくなく、人の目も気になる。なんだか陰鬱とした靄の中から抜け出せない毎日だった。当時の我が家は、父は大分に単身赴任中で、両親につながる高齢の親族たちの世話を専ら母がしていた。そこに“元優等生”の一人息子がくすぶり始めた。まあ、大事だ。母があちこちに教育相談に出掛けるのは気付いていたが、知らないふりをしていた。そんな母が「宮崎東高校に昼間部というのがある」と言い出した。表向きは「もう一度学校に通ってほしい」という母の願いに根負けした振りをしたが、「社会的無所属」という無形な生き方に手詰まりになっていたのは私だったかもしれない。
そんなこんなで再び制服を着て2回目の高校1年生になることになった。宮崎東高校定時制昼間部というのは「不思議な学校」だった。同じ校舎に夜間部と通信制もある。単位制で1学年1クラス。私は5期生だった。その中に英語・情報・スポーツの3コースがあり、かなりの自由度で受講科目を決める。空コマを作ることはできないが、大学の講義選択にそのイメージは近い。当時の生徒がそのメリットを生かし切れていたかに疑問は残るが、実験で作った学校なのかと思わせるユニークさがあった。まだ腰の入院や手術が続いていた私にとっては実に都合のいい学校でもあった。
さて、私が述べたいのは、この学校の制度ではなく、ここでの「気づき」についてだ。既述のように不思議な学校である。夜間や通信ほどの年齢的幅はないものの、私のような中退経験のある過年度生が約10人、一つ上の生徒も2人いたので、1~3年生が一緒の教室にいるようなものだ。バイトや遊びが忙しそうな子もいれば、特段の理由なくあまり学校に来ない子もいる。一方でスポーツコースは全員が陸上部で大半は寮で生活し、インターハイや全国高校駅伝を目指すというレベルの選手なのである。
学力もバラバラ。もう時効と思うが、入学直後に「授業は聞いてなくていいから、どんどん進みなさい」と先生に言われた。2回目の高校1年との特殊事情もあったが、遠慮なく言われた通り3年間実践した。ただし取り組むのは、最低限授業と同じ教科というのを先生へのマナーにはしたつもりだ。では、放置されていたのかというと、そうではない。どの先生も個別に大学受験までたどり着く細かい指導をしてくれたし、歴代の教頭先生は放課後に個別授業までしてくれた。学校現場の多忙ぶりを考えると、驚くほどの寄り添い方だったと思う。
また、学校の勧めで論作文と弁論の活動を始めた。図らずもそれが大会やコンクールで高評価を受けた。「普通科からドロップアウトしたけど、捨てたものでもないな」と少しずつ自尊心のようなものも取り戻すきっかけになった。迷いの中にいた自分がここからでも歩み直しはできるのではないかという光を見出し始めていたのだと思う。
私は、この学校で「多様性」と、違いを受け止める「寛容さ」に気付いた。みんな一律である必要はないのだ。世の中から見た標準ではなかったとしても、だから何が悪いわけでもない。自分とは違う歩み方をしている子がいても、それはその子の歩み方。邪魔もしなければ、殊更に違うことを強調する必要もない。いい意味で人は人。私はこうありたい、を実践すればいいのだということを学んだ。「バスケットができなくなった」という大人になれば些細なことで、自分の足元が崩壊した弱さも自分の歩み、その先の気づきで少し逞しくなったのも私の歩みと胸を張れる大人になろうと思ったのだ。
県定時制通信制高校教育振興会という組織の副会長を務めている。こだわって4年所属した文教警察企業常任委では「幅の広い受け皿」そして「学びの機会を守る最後の砦」としての定通制の重要さを指摘し続けている。ただ10年県議会に籍を置いているが、残念ながら定通制を取り扱う議員はほとんどいない。別に誰しもに母校を勧めるわけではない。オーソドックスな学びの方が無駄もない。ただ、私自身は自らのつまずきも含め、定時制高校の卒業生であること、人とは少し違うアンオーソドックスでユニークな4年間の高校生活を送ったことに今も誇りを持っている。
毎日新聞に入社したのは2001年春。21世紀最初の新入社員だった。政治部での記者歴しか知られていないが、初任地・横浜で5年間過ごした。ここで結婚し、長女も生まれた。
実は大半を警察担当として過ごした。いわゆる「サツ回り」だが、誰もが新人時代に経験するレベルとは少々趣が異なり、相手は居住人口800万人超、警察署は54署、横浜市内に21署という日本最大の「県警」。県警本部の記者クラブに常時6、7人が所属し、川崎や厚木などのミニ支局や通信部も含めれば十数人がかりで取材する世界。しかも時は全国で発覚相次ぐ警察不祥事の真っただ中。神奈川は発火点の一つであり、本部長が逮捕されるという想像を絶する状況にあった。
事件も多かった。私は「署回り」と呼ばれる所轄署担当を終えた後は、「1課担」と呼ばれる刑事部捜査1課と捜査3課の担当が長かった。1課は殺人・傷害・強盗・強制わいせつ・誘拐・放火などの強行事件・特殊事件を扱うところで、3課はわかりやすく言えば「泥棒」専門。残虐極まりない事件や居た堪れない背景に頭を抱える事件、安楽死や米軍兵による殺人など社会的に反響の大きいものも少なくなかった。
どうしても忘れられない事件事故が二つある。いずれも記者1年目だった。一つは、池井戸潤の小説「空飛ぶタイヤ」のモデルになった横浜市瀬谷区の大型トラック脱輪事故。緩やかな坂道でベビーカーを押していた当時27歳の母親の背中に外れたタイヤが直撃した。原因は「ハブ」と呼ばれる部品の欠陥で、日本を代表する自動車メーカーの組織的リコール隠しの発覚につながっていく。現場に駆け付けると、なだらかな坂に10メートルに渡って流れた血痕が残っていた。被害者の無念さを物語っているようだった。
もう一つは、初めて現場に臨場した事件である。横浜市中区に本牧という港湾地区がある。マンション型の公営住宅で未明に火災があり、小学生の兄・妹・妹の兄弟3人が亡くなった。2週間の記者研修を終えて、支局に配属されて間もないGW前後のことだった。先輩の指示と研修内容を思い出しながら、必死で取材し、子供たちの写真を探し、何とか夕刊へ送稿を間に合わせた。怒涛のような午前中を過ごし、ようやく一息ついた時、手に入れた3人の写真を初めてきちんと見つめた。子供会の誕生会で3人がはにかんで並んでいる。「もうこの子たちはいないのか・・・」。この火災の惨さをようやく実感し始めた。
取材を続けると、火元は仏壇のろうそくだった。父親を亡くしていた一家を支える母親は昼と夜の仕事を掛け持ちしていた。子どもたちは母親を見送った後、父の仏壇に火を灯して眠りに落ちてしまったのだろう。その火が引き金になってしまった。父親を亡くし、必死で働く母親。寂しさを我慢し、亡き父を思ってろうそくを灯した子供たち。一所懸命生きただけなのに、子どものために懸命に働いていただけなのに、誰が母親を責めることができようか。そんな働き方をしなくても、みんなが当たり前の生活を手にできる国だったら、母親が家にいることができ、3人が命は救われたかもしれない。20年の月日が流れた。あの泣き崩れていた母親はどうしているだろうか。世の不条理を痛感し、そして社会が救うことのできる不条理もあるはずだと思い始めたのは、この時からだった。
長々と43年の歩みの棚卸のようなことをしてきたが、お付き合いいただいたことに感謝する。私自身の頭と心も整理されてきた気がしている。
今回、11年ぶりに国政への挑戦を決意した。実は、初挑戦の参院選での落選に後悔はない。懸命に応援戴いた皆様からはお叱りを受けるかもしれないが、むしろよかったとすら思っている節がある。理由は明瞭だ。当時の私は、全国紙の政治部記者を経て突然宮崎に戻った身で、仮にいくら志があったと言っても、本当の意味で宮崎の声を体現できる存在であったのかということに私自身疑問が残る。
順番が前後したが、断っておく。決してそういう出方が悪いと言っているのではない。国政を担うにあたり、この国は地元を気にし過ぎるのが弊害の一つであることは記者の時代から感じていたし、もう少しイギリスのように地縁ではなく本人の能力が評価されて選挙区を獲得する政治風土に近づいてもいい気がしている。また、政党や政党と密接に関係する立場にある人たちが、最善でなくともまずは有権者に選択肢を提示することを優先しなければならない場合が少なくないことも、擁立する側で頭を悩ましてきた経験からもわかる。
そのことを踏まえたうえで、私にとってこの11年の歩みは、懸命に宮崎の声を紡ごうとしてきた時間であった。一人の生活者として宮崎の四季に再び体を馴染ませ、子供を育て、地域コミュニティーの一員として笑顔で汗をかいた。県議として歩みながら暮らしの中から見つめるべき宮崎のあり方を問い続けてきた。苦境が続く国政選挙の屋台骨として悶絶したことも一度や二度ではない。時には酒も酌み交わしながら人の話に耳を傾け、議論を交わした。労働組合の皆さんとも一方ならぬ交わりを持たせていただいたと思っている。つまり、その歩みの中からもう一度国政への挑戦を決めたのだ。今度こそ結実させなければならない。
国会議員として取り組まなければならないことは無数にある。教育・福祉・医療の充実は不可欠だし、一次産業を守ることも欠かせない。産業育成、財政再建、緊張する安全保障環境をどう緩和するか。宮崎のような地方の社会基盤整備は十分とは言い切れない現実もある。課題は種々山積である。いずれも全力を尽くす。まずそう宣言する。そのうえで、政治家は理想を持ったリアリスト兼ゼネラリストであるべきという自分の信条を明らかにして、私が取り組むことを簡潔に4つだけ記しておく。何のために国政を目指すのかと置き換えてもいい。
まず、選択できる社会を作ろう。大切なのは誰もが生きやすい社会、誰もが生きづらくない社会を築くことなのだ。「私には直接関係ないけれど、そのことで生きづらさを抱える人たちがいる」。裏返せば「多くの人たちには課題でないけど、私には大きな障壁」という問題がこの世にはある。例えば、選択的夫婦別姓も、性的少数者を巡る問題もそうかもしれない。オーソドックスではなかったからと言って何の問題がある。自分と違う選択の人がいたからと言って何の問題がある。何も問題はないのだ。生き方を選べる社会にしようではないか。それで、課題を解決し前進できる人たちがいるのであれば、「それもいいね」ということのできる寛容な社会に転換する。その社会転換を仕組みとして裏打ちしたいのだ。
二つ目。「困った時に不安のない安心」を確立した社会保障制度に転換する。私たちは就職氷河期と呼ばれた世代である。景気変動と社会構造のツケが一気に噴き出し、“普通の就職”の間口が極端に狭まり、そこであぶれると非正規雇用から抜け出せないという困難を抱えたまま社会に放り出された。その世代がすでに40代を構成しているという現実を受け止めなければならない。政府の経済財政諮問会議は、この世代のことを「人生再設計第一世代」と呼び始めた。余計なお世話である。個人の問題ではなく、社会の構造として作り出してしまったのは政治の責任であろうと言いたい。何を人ごとのような顔をしているのかと怒りすら湧いてくる。
あと20年すれば、このゾーンが高齢者にスライドしてくるのである。そんなに先の話ではない。一時期話題になった「下流老人」の比ではない厳しい状況が容易に予測される。そのためには社会保障の考え方を根本的に見つめ直して、「不安がない」を担保できる助け合いを確立するしかない。つまり、負担を見つめ直してでも「社会生活を営めるベーシックな恩恵」を確立するしか術はないというのが私の考えだ。繰り返しだが、その際には「困らないベーシックサービス」が担保されることが絶対条件となる。
この国の政府は、不誠実だ。いつまでも成長戦略の成功を大前提にした社会保障の充実を語ろうとする。しかし、経済成長など無縁の25年が続いているではないか。アベノミクスを誇ってみても、1%ちょっとの経済成長率でしかない。間違わないでほしい。経済成長を否定しているのではない。望ましいが、すぐに結果を生む成長戦略など描けない時代になっている現実を見つめようと言っているだけだ。昭和のモデルを抜け出そう。低経済成長であっても安心を確立する方法をそろそろ導き出さなければ、行き詰ってしまうと憂いている。
紙幅に限界があるので、今回はここまでにするが、私はこのあたりの考え方は慶応大学の井手英策さんに近い。ただし、社会保障の恩恵と負担のあり方をきちんと議論するには、政治の安定が必要になる。世間では8年以上も安定政権と言われながら、社会保障の問題に手を付けようとしない政権は、民の暮らしなど関心がないのだと勘ぐりたくなる。もう一つ、コロナ禍にある現在、短期的な国民負担に関する問題は、この限りではないと考えている。
三つ目は、教育の充実である。特に義務教育と、ほぼ全入に近い高校教育の充実である。まず、子供たちに学校で学んでほしいのは、本当の意味でのインクルーシブである。自分とは違う人がいる。それが当たり前で、そのみんなで社会は構成するものだ。頑張りたいと思う子どもには、等しく頑張れるチャンスがあり、同時に躓いたってやり直せるし、人とペースが違ってもいい。このことを絶対的に担保する環境を整えたい。
加えて、社会保障の議論とも結びつくが、大学まで含めた無償化もしくは極めて低廉な費用を実現しよう。「学びたい」という欲求の保障であり、同時に必要と考えた分だけきちんと学べる社会の構築につなげたいのである。子どもを大切にする社会は、誰をも大事にする社会につながると私は信じている。その入り口として、私はもう一度、チルドレンファーストの社会を目指そうと声を上げる。
最後は、立憲主義を貫く。憲法の理念を蔑ろにし、事実上骨抜きにしようとする政治がこれ以上許されていいはずがない。そのうえで、私は日本国憲法の理念に誇りを持つ一人である。いくらでも議論はあってもいい。しかし、私はこの憲法の根幹を為す理念を守りたいとの立場に立っている。安全保障についても、目の前の課題には現実的に、かつ権限の行使については冷静かつ抑制的にあるべきだとの姿勢だ。
久しぶりに長い原稿を書かせていただき、気分が高まってきたところだが、そろそろ締めくくりに入るべき頃合いのようだ。衆議院の任期満了は今年10月。秋までには総選挙が行われる。残すところ半年。解散時期の見立ては、元の商売が商売なので、いろいろ理屈を考えることは不得手ではないが、結論を言えば解散権は総理にしかないということになる。頑張るのみである。
その選挙に臨むにあたって、皆さんに理解してもらいたいことがある。まず、衆議院選挙で我々が勝利し政権をとってもすぐに政策を大転換することはできない。少し時間がほしい。言い訳ではない。衆院で過半を占めても、参院では少数という捻じれに陥ることになる。この現実はすぐには変えられない。しかし、参議院の半数改選は来年の夏。1年耐えれば本格的に構造を変えるチャンスだ。そこまではひたすら忍耐というのが、政治の現実的セオリーである。したがって、みなさんとともに歩む我々の本当の戦いは、来年夏の参院選までの「二部構成」である。ただまずは「第一部」を勝利に導いてほしい。
もう一つ。先日、我が党の枝野幸男代表とZOOMで公式・非公式に話をした。一致したのは、2009年政権交代の幻想から抜け出そうということだ。もっと率直に言えば、2009年の失敗から学ぶということ。次の戦いで、私たちが追い求めるのは、2009年のような熱狂ではない。もっと政党として成熟した静かな信用や信頼なのだ。そして目玉政策でどう関心を引くかというようなことではなく、訴えなければならないのは、なぜ構造を変えようとするのか、政策の背景にある理念の転換を図りたいのはなぜなのか、ということなのだ。
私たちは「あなたのための政治。」を標榜する。なぜ一人ひとりに寄り添える政治を唱え、国民の憤りと向き合いたいと思うのか。これからも全国各地でそのことを同志が訴え続ける。私もその一員として、宮崎の声を紡いできたからこそできる形で訴え続ける。その決意は揺るがない。
今回の寄稿が、「渡辺創が立ち上がる理由」をご理解いただく一助になれば、この上ない至福である。最後までお付き合いいただいたことに心から感謝しながら、筆を納めることにする。